ローマ帝国①(ポエニ戦争と地中海の覇権)|国や企業の歴史に学ぶ良い社会・強い組織についての考察 #4

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このシリーズでは「良い社会」や「強い組織」についてまとめていきます。詳細の連載の経緯や注意事項などについては#1にまとめました。

良い社会とは何か、強い組織とは何か|国や企業の歴史に学ぶ良い社会・強い組織についての考察 #1 - Liberal Art’s diary

#2では春秋戦国〜秦の統一にについて、#3では秦の滅亡〜楚漢戦争、漢の成立までとそれにあたっての組織論的な考察をまとめました。

春秋戦国〜秦の統一における中国史と組織論|国や企業の歴史に学ぶ良い社会・強い組織についての考察 #2 - Liberal Art’s diary

『秦の滅亡〜楚漢戦争と漢の成立』における中国史と組織論|国や企業の歴史に学ぶ良い社会・強い組織についての考察 #3 - Liberal Art’s diary

#4以降ではローマ帝国について取り扱います。ローマ帝国は国力が大きく、歴史が長く、文化も発展しているなど考察したい点が数多くあるため、何度かに分けていくつかの視点から取り扱っていく形式にできればと思います。
#4ではローマ帝国が地中海の覇権を獲得するに至った、カルタゴとの戦いであるポエニ戦争について取り扱います。
以下、目次となります。
1. ポエニ戦争の概要
2. 名将ハンニバルとローマの攻防(第二次ポエニ戦争)
3. 第二次ポエニ戦争にローマが勝利できたのは何故か
4. まとめ


1. ポエニ戦争の概要
1節ではポエニ戦争の概要についてまとめます。

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ポエニ戦争 - Wikipedia

史実そのものにはそこまで重きを置いていないので(もちろんできる限り正確性には注意しますが)、上記のWikipediaの内容を中心にまとめていきます。まず、上記が概要ですが、「共和制ローマカルタゴの間で地中海の覇権を賭けて争われた一連の戦争」であるとされています。紀元前264年のローマ軍によるシチリア上陸から紀元前146年のカルタゴ滅亡までの3度にわたって戦争が繰り広げられたとされています。
以下、第一次〜第三次を簡単に確認していきます。

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第一次は、紀元前264年〜紀元前241年にシチリア島をめぐって一連の戦闘が行われたとされています。一進一退が続いたものの、紀元前244年にカルタゴが海軍を縮小したのを契機にローマが艦隊を再建し、紀元前241年のアエガデス諸島沖の海戦でローマがカルタゴを破り、第一次ポエニ戦争の決着をつけたとされています。

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第二次は、紀元前219年〜紀元前201年のカルタゴの将軍ハンニバルによるローマ侵攻を指しています。ハンニバルのアルプス越えやカンナエの戦いなどの圧倒的な戦術的な勝利などの印象が強いため、ハンニバル戦争とも呼ばれています。戦術レベルにおいては古今東西稀に見るほどの圧勝だと言われることも多い一方で、最終的にはローマの国力が上回った戦いになり、戦略と戦術について考えるにあたって非常に興味深い戦いとなっています。

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第三次は、紀元前149年〜紀元前146年に起こり、結果として都市国家カルタゴは滅亡するに至っています。

第一次〜第三次まで見てきましたが、強い組織について考察するにあたっての題材としては第二次ポエニ戦争におけるハンニバルの戦術的卓越性と、それを上回ったローマの国力について着目するのが良さそうです。そのため、2節では第二次ポエニ戦争の内容をより詳しく取り扱い、3節ではローマが勝利するに至った理由について考えながら強い組織について考察できればと思います。


2. 名将ハンニバルとローマの攻防(第二次ポエニ戦争)
2節では第二次ポエニ戦争における、名将ハンニバルとローマの攻防についてより詳しく見ていければと思います。

第二次ポエニ戦争 - Wikipedia

上記を中心に確認していきます。

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まず背景としては、第一次ポエニ戦争の結果としてカルタゴシチリア島をローマに割譲した損失を補うため、ヒスパニア(現在はスペイン)の制服に取り掛かり、ハンニバルの父のハミルカルバルカによってヒスパニアの征服がなされました。その後、紀元前221年にハンニバルが総督となり、紀元前219年よりローマの友好都市への侵攻が始まります。

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ローマを屈服させるためにローマ本土へ侵攻するにあたって、ハンニバル制海権がローマに握られていることから、アルプス越えを試み、犠牲を伴いつつも成功させました。

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アルプス越えの後、ティキヌスの戦い、トレビアの戦い、トラシメヌス湖畔の戦いの三つの戦いにおいてハンニバルは圧勝し、その後ローマが体制を整えて挑んだカンナエの戦いでもハンニバルは圧勝しています。

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ここまではハンニバルの圧倒的勝利で、南イタリアのカプアやシチリア島シラクサカルタゴに味方することを宣言したものの、それ以外のローマの同盟都市はローマとの同盟を崩さず、ハンニバルの最重要作戦目的であった、ローマと同盟都市との結束が崩れず、以後のハンニバルの作戦に大きなマイナスの影響を及ぼすようになったとされています。

このタイミングが第二次ポエニ戦争のターニングポイントとなり、ローマの将軍スキピオ・アフリカヌスなどの台頭などによって徐々にローマ優勢に変わり、紀元前202年のザマの戦いでローマはカルタゴに勝利し、第二次ポエニ戦争の決着をつけています。

 

3. 第二次ポエニ戦争にローマが勝利できたのは何故か
3節では2節で取り扱った、第二次ポエニ戦争でローマが勝利できたのは何故かについて考えたいと思います。
まず、ハンニバルの作戦の最重要目的はローマと同盟都市との同盟関係を崩すことにあり、ハンニバルは単なる戦術的な勝利だけを求めていたわけではありませんでした。しかしながらハンニバルは戦場で戦術レベルでは圧勝しながらも、ローマと同盟都市の関係性はそれほど大きく揺らぎませんでした。
この辺の原因についてはWikipediaには直接的には書かれていませんでしたが、本国からの補給などについては様々な経緯において指摘があがっています。本国からは制海権がローマにあることによりなかなか支援がしづらいというのと、ヒスパニアからはアルプス越えの必要性から支援がしづらいというのがあったと思われます。また、ハンニバル自身がアルプス越えに伴い半数以上の兵士が脱落しており、決戦には勝つことができたものの(それだけでも凄いことですが)、守勢に回ったローマに圧力をかけるほどの兵力がなくなっていたとも考えられます。
イタリア半島の立地により、制海権を持ってしまえば攻められにくいというのがローマの戦略的な優位になっていたのではと思われました(この辺は476年の西ローマ帝国滅亡の際の経緯などと比較するのも参考になりそうなので機会があれば比較してみたいと思います)。

色々と記述してきましたが、戦略レベルで見るなら本国との連携が海を隔てているためになかなかうまくいかなかった(内部の政治家が機を見るに敏なら対応できたかもしれないですが、時代背景的に情報収集が難しくよほどの名政治家以外は対応が難しそうです)ことが大きいのではと思われました。陸つながりならまだ連絡が取りやすかったとも思われます。
ハンニバルが取れた作戦としては焦土戦術を用いることでイタリア半島の生産性を奪ってしまうこともあげられるようにも思われますが、あまり望ましい作戦ではないと思われます。

ここまでの内容から考察するに、戦略のミスは戦術では補えないというのがあると思われます。もう少しハンニバル側が慎重に戦略的な要件を揃えていれば勝敗は逆になっていた可能性もあるのではと思います。戦術的には古今東西屈指の名将と挙げられるハンニバルですが、戦術的な才能があり過ぎて強行軍を組み過ぎたというのが良くなかったのかもしれません。この辺は天才的な名将だったからゆえの見落としがあったのではないかと思われました。(結果だけを見て後から評価するならイタリア本土への侵攻自体は愚策だったとも言えますが、歴史に残る所以でもあり、この辺は評価が難しいなと思います。)

「たとえ自信がある時も可能な限り状況を大局的な視点で整理することに努めるべきである」というのを今回の結論としたいと思います。


4. まとめ
#4では共和制ローマカルタゴの間に起こったポエニ戦争について確認しました。3節の記述については要出典なので、後日より詳しく確認した際に修正する可能性があります。
#5では共和制ローマから帝政ローマへの移行にあたっての三頭政治カエサルオクタウィアヌスらに着目して考察していければと思います。