春秋戦国〜秦の統一における中国史と組織論|国や企業の歴史に学ぶ良い社会・強い組織についての考察 #2

このシリーズでは「良い社会」や「強い組織」についてまとめていきます。詳細の連載の経緯や注意事項などについては#1にまとめました。

#2では春秋戦国〜秦の統一における中国史と組織論についてまとめます。
以下、目次となります。
1. はじめに
2. 周王朝春秋五覇
3. 戦国七雄と秦の統一
4. まとめ


1. はじめに
#1では「良い社会」と「強い組織」について色々と論述しましたが、国の歴史を扱うにあたって社会ではなくて組織にフォーカスしているのは、「現代とは価値観が異なること」と、「秦の統一を通しての組織論について考えるのは比較的わかりやすそうに思われたこと」が理由です。
特に戦国七雄を下して中国史において最初の統一王朝となった秦の組織的な強さについて考察するというのは面白そうです。2節以降でそれぞれについて確認していきます。


2. 周王朝春秋五覇
まずは周王朝について下記を参考に簡単に確認します。

周 - Wikipedia

周王朝紀元前(1046年頃 - 紀元前256年)は紀元前771年の洛邑遷都を境にそれ以前を西周、以後を東周と呼ばれています。東周が成立した同時期の紀元前770年から春秋時代が320年ほど続いたとされており、春秋五覇はその時代に周王朝の代わりに天下を取り仕切った覇者の5人とされています。

覇者 - Wikipedia

覇者についてはWikipediaの記載によると『徳を以て天下を治める者を「王者(周王室を指す)」と呼ぶのに対し、実力および諸侯の信を得て天下にその名を知らしめた君主を「覇者」と呼んだ。初期は、周王室を護って夷狄を退けること(尊王攘夷)によって授けられたが、周の権威が失われるにつれ、諸侯を集め盟主として会盟を行うことで覇を唱えるようになった。』とされています。日本史における幕府に近いイメージで考えるでも良さそうです。この覇者の中でも代表として挙げられているのが春秋五覇で、春秋五覇については下記を参考にします。

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春秋五覇 - Wikipedia

春秋五覇については必ずしも統一の5人が挙げられているわけではなく、文献によって挙げられている名前が異なっていますが、斉の桓公と晋の文公だけはどの文献でも挙げられています。

春秋時代を考えた際に面白いのが、中国史においては武力と最高権力が同じとして見られる場合が多い一方で、春秋時代は日本の天皇と幕府の将軍のような関係性になっている点です。この関係性については色々と考察していくと面白そうであると思われます。


3. 戦国七雄と秦の統一
3節では戦国七雄と秦の統一について取り扱います。

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戦国時代 (中国) - Wikipedia

概要としては、上記にあるように『前403年に晋が韓・魏・趙の3つの国に分かれてから、紀元前221年に秦による中国統一がなされるまで』と考えるのが良さそうです。

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戦国七雄は上記のように韓、趙、魏、楚、燕、斉、秦の七国とされています。

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時代の始まりから秦の統一までは大まかに上記が参考になります。詳しくはWikipediaの記事に記載があるので、取り扱いませんが、『魏 -> 趙・秦・斉(武霊王、BC.310頃) -> 秦・斉 -> (楽毅の合従軍、BC.284) -> 秦一強(名将白起の台頭) -> 始皇帝即位(BC.247) -> 統一(BC.221)』が主な流れと考えておくと良いと思われます。

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秦の統一が実現した背景としてはWikipediaでは上記のように記載されています。軍事的な意味合いでは楽毅による斉の弱体化と白起による戦勝が大きいと考えることができると思いますが、大国晋の消滅や商鞅の改革のような政治面も大きいとされています。
秦の統一が実現した背景としてはWikipediaでは上記のように記載されています。軍事的な意味合いでは楽毅による斉の弱体化と白起による戦勝が大きいと考えることができると思いますが、大国晋の消滅や商鞅の改革のような政治面も大きいとされています。
特に商鞅の改革については特筆すべきと思われ、楚の呉起の改革は王の代替わりによってなかったことになったのにも関わらず、商鞅の改革は王の代替わりによって商鞅が失脚してもそのままになったというのは非常に大きいと思われます。
商鞅が秦において行なった改革の主要なポイントは、法を国政の中心に据えたことです。当時の国の運営は王者の徳によるものと考えられていたこともあり、法の導入はなかなか最初からうまくいったわけではないですが、様々な施策を講じたこともあり、10年後に法の効果が出始め、秦の国力の向上に大きく役立ったとされています。下記に第一次変法(BC.356)と第二次変法(BC.350)についてそれぞれキャプチャしました。
↓第一次変法

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↓第二次変法

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これらによって秦は強国となったとされています(詳細の解釈はWikipediaをご確認ください)。
当時の時代背景を考えると法の導入によって、下記がもたらされたと考えられます。

・国家運営の方針の明確化
-> 秦国の運営にあたって法が定まっていることから、国が構成員一人一人に求めることが明確になっています。そのため、一人一人が何に取り組むとよく、何を行うのがよくないのかについて把握しやすくなっていると考えることができます。

・管理コストの削減
-> 法が明確になっていることで交渉の余地が狭まり、その分管理コストの削減になっています。管理にかかっているコストを国を発展させる方向へ向けることで、秦の国力が増強したと考えることができます。

・王者の個人資質に関係なく国家運営が可能になる
-> 徳をもって運営していくとなれば最高権力者である王の資質に国家運営が左右されてしまいます。もちろん規則ばかりでもいけないですが、当時の最高権力者は現代では想像できないレベルの権力を持っていると考えることができ、その権力の範囲を狭めることが国家運営においてかなりプラスに働いたと考えられます。逆説的ですが、権力というのは濫用すると弱まり、適用範囲を狭めると強まる傾向があると思われます。

・出自や身分に関係ない人材の登用
-> 当時は現代以上に家柄などが重視されていたと思われますが、法を定めることで評価の基準が明確になり、優秀な人材の登用がうまくいきやすくなったと思われます。関連の記述などでは秦では平民などからの人材登用がうまくいっていたともされているので、この辺は法を定めたことにもよるのかなと思われます。


4. まとめ
#2では春秋戦国〜秦の統一について取り扱いました。現代の企業における組織論の文脈で考え直すのであれば、創業者が退任した後の大企業の運営はどうあるべきかについても関連してくる話なのではと思われました。何を重視して何を重視しないのかというのをいかに組織全体に浸透していくかというのに対し、秦の台頭と統一における商鞅による法の導入は参考になる点が多いのではと思います。
#3では統一後の秦の衰退と楚漢戦争、漢の成立について見ていければと思います。