『秦の滅亡〜楚漢戦争と漢の成立』における中国史と組織論|国や企業の歴史に学ぶ良い社会・強い組織についての考察 #3

このシリーズでは「良い社会」や「強い組織」についてまとめていきます。詳細の連載の経緯や注意事項などについては#1にまとめました。

良い社会とは何か、強い組織とは何か|国や企業の歴史に学ぶ良い社会・強い組織についての考察 #1 - Liberal Art’s diary

#2では春秋戦国〜秦の統一における中国史と組織論についてまとめました。

春秋戦国〜秦の統一における中国史と組織論|国や企業の歴史に学ぶ良い社会・強い組織についての考察 #2 - Liberal Art’s diary

#3では#2に引き続き中国史から秦の滅亡〜楚漢戦争、漢の成立までとそれにあたっての組織論的な考察を取り扱えればと思います。
以下、目次となります。
1. 秦の衰退と滅亡
2. 楚漢戦争と漢の成立
3. まとめ


1. 秦の衰退と滅亡
1節では秦の衰退と滅亡について取り扱います。

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秦 - Wikipedia

#2でも取り扱ったように秦は紀元前221年に中国を統一した王朝です。#2では統一までの歴史的な背景と、商鞅の改革に着目しましたが、圧倒的な国力をもって中華全土を統一した秦王朝ですが、わずか15年後の紀元前206年に秦は滅亡してしまいます。

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上記は紀元前210年の秦の版図とされていますが、わずか4年後に秦は滅んでしまいます。

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統一後の始皇帝(秦の王が全土統一の際に皇帝と名乗った)の統治は上記とされています。度量衡・文字の統一、郡県制、万里の長城など、統一国家の運営にあたっての業績や中国史に与えた影響は非常に大きいと考えることができますが、建設工事への農民の使役や焚書坑儒などやや行き過ぎた国家運営もあったとされています。

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秦の滅亡の過程はWikipediaでは上記のように記述されています。二代目の皇帝時代に宦官の趙高の行なった暴政が度を超えており、それによって各地で反乱が起きたとされています。特に有名なのは紀元前209年時の陳勝呉広の乱で、単なる暴動が中華全土に広がったとされています。陳勝呉広の乱は討伐軍の将軍である章邯に鎮圧されたものの、騒乱は止まらず項羽劉邦などによって秦は紀元前206年に滅亡します。
上記までは歴史上の大まかな流れですが、陳勝呉広の乱は最初は単なる暴動や農民反乱のレベルであったとされており、国家運営が適切であるならばそれほど大きな問題にもならず鎮圧されたはずです。これが国家全土レベルに広がったのはそれだけ秦の政治に不満が大きかったというのが読み取れると思います。
陳勝呉広などは元々労働のために勤務地に向かっていたものの大雨で間に合わなくて処刑されるくらいならということで反乱を起こしており理由が法の寛容さを欠いているのと、広がるにあたってどういう結果になるのであれ今よりは良いだろうということで決起した人民も多かったであろうと考えられます。やはり原因として一番大きいのはよく挙げられる趙高の暴政だと思われます(ちなみに中国史では国の衰退は宦官か外戚による専横の例が多いとされています)。
それでは何故趙高は権力を握ることができたのでしょうか。

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趙高 - Wikipedia

上記にあるように、趙高は勤勉で法律に詳しく、それにより始皇帝の身辺雑務を任されるようになったとされています。

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また上記のように始皇帝の遺言を改変し、始皇帝の長男の扶蘇を自決に追い込み自身が家庭教師をしていた始皇帝の末子胡亥を二代目皇帝に即位させます。この時趙高は権力を欲しいままにし、蒙恬などの有能な将軍を処刑したとされており、これは秦の軍隊の弱体化につながりました。

ここまでは一般的な歴史の話として有名な話ですが、趙高は勤勉で法律に詳しかったというのが以後では着目します。商鞅による法律の導入で国力を増した秦ですが、中華統一の頃の秦は非常に法律が多く、なかなか取り扱いに難しくなっていたとされています。法律は国力を増すのに役だったが、複雑になり過ぎることで悪用される余地が生じてしまったというのがここから読み取れる内容です。
法律などのルール(決まり事)はなくてはならないものだが、複雑になり過ぎてもいけないというのが組織運営においては重要なのかもしれません。法というものは組織運営にあたって何を構成員に求め、何を禁じるかのためにあるものであり、知識の寡多を競うものではないと考えるべきだと思われます。この辺りはほどよい制度設計について論じる際には忘れてはいけないポイントなのかもしれません。


2. 楚漢戦争と漢の成立
2節では楚漢戦争と漢の成立について取り扱います。

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楚漢戦争 - Wikipedia

楚漢戦争は秦帝国滅亡後の紀元前206年〜紀元前202年の西楚の覇王項羽と漢王劉邦の間で争われた戦争です。

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上記が楚漢戦争における行軍図であるとされています。戦術的な意味での戦い自体は項羽が圧倒的に強かったものの、全体を俯瞰した上での軍における人員配置などについてうまくいかなかったり、政治的な国家運営が身内びいきになりすぎたりで、戦略的には最終的に劉邦が優勢になり勝利し、漢を建国しました。

項籍 - Wikipedia
項羽については多くの記載があり、評価も良い点悪い点のどちらも際立った内容になっています。
楚漢戦争についてはマネジメントや政治という視点から考察できればと思います。配下への権限委譲が健全に行えていた劉邦と、ワンマンのマネジメントになりがちだった項羽の差が勝敗を分けたと考えられるかと思います。一個人としての才能を見るなら項羽は時代関係なく中国史の中で見ても傑出しており、戦場での強さは抜きん出ていたと思われます。一方で、情緒的に最高権力者としては弱い一面があり、旗揚げして3年ほど一気に全土の最高指導者まで登り詰めたのが逆に順調過ぎたというのもあるのかもしれません。また、旗揚げ時は叔父の項梁の配下だったものの、章邯によって項梁が討ち取られてしまったため権力のバランスも悪くなったというのもありそうです。

いずれにせよ、大事をなすにあたって権限委譲をいかに行い、関係者の良さを引き出しつつ背任を許さないかというのはこの楚漢戦争から読み取れる内容かもしれません。秦の統一のように代々続いてきた国が背景にあるケースではなく、楚漢戦争は劉邦項羽ともに一市民から旗揚げしているのでこの辺の組織作りは難しかったであろうと思われます。
項羽とは対照的に劉邦は人の長所を生かすのがうまく、特に優れた三傑と呼ばれる「張良、蕭何、韓信」をうまくマネジメントできたというのが劉邦の勝因だと言われています。中でも蕭何は漢の建国後も丞相(首相)として引き続き国家の中枢を担っており、政治家として非常に有能だったと考えられます。このように人の良い点をうまく生かす劉邦のマネジメントについては参考にすべき点は多いのではと思われました。


3. まとめ
#3では中国史から秦の滅亡〜楚漢戦争、漢の成立までとそれにあたっての組織論的な考察を行いました。
#4以降ではローマ帝国について取り扱っていければと思います。