リベラルの「新自由主義」・「格差社会」批判が支持を得られない理由|マクロ経済を考える #3

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昨今、「新自由主義」・「格差社会」への批判が話題になります。実体経済のデフレと金融商材のバブルが同時に起きているところや、それに伴い「格差」や「貧困」の問題が生じていると言われています。
いわゆる「リベラル」層はこれにあたって「新自由主義」や「格差社会」について批判し、いわゆる「保守」層はこれに反対します。ここまでの話はあくまで一般論として論じられている内容だと思いますが、あえて「いわゆる」をつけました。というのも、「リベラル」と「保守」の定義はややこしいからです。とはいえ、改めて定義し直すとさらにややこしくなりそうなので、「リベラル」と「保守」という形でクオテーションをつけることにより、一般的に使われている使い方を踏襲したまでであるということを強調しようと思います。

さて、この記事の本題ですが、「リベラルの新自由主義格差社会の批判がなぜ支持を得られないか」です。もちろん支持者はいますが、ある程度「保守」側の方が優勢なのは数字を見ればわかると思います。とはいえ、ここで生じている面白いパラドックスが、「実はリベラルを支持する方がプラスになる人が保守を支持しているケースが多い」ということです。

以下、このパラドックスについて考察していきたいと思います。「新自由主義格差社会批判は問題の一面だけを切り取っているに過ぎないので、支持されにくい」というのが結論ですが、これだけだとよくわからないと思うので詳細について論じていきます。
目次は下記になります。
1. 「新自由主義」について確認
2. なぜ「リベラル」は支持を得られないのか
3. 「新自由主義」が機能しなくなるリスクはどこにあるのか
4. 「機会平等」を論じる意義
5. まとめ

 

1. 「新自由主義」について確認
1節では「新自由主義」について簡単に確認したいと思います。Wikipediaの記載では「1930年以降、社会的市場経済に対して個人の自由や市場原理を再評価し、政府による個人や市場への介入は最低限とすべきと提唱する。1970年以降の日本では主にこの意味で使用される場合が多い」とされる、ネオリベラリズムについてを「新自由主義」と考えて異論は出ないかと思います(https://ja.wikipedia.org/wiki/新自由主義)。

重要なポイントを抜粋して確認してみます。

・個人の自由や市場原理の再評価
・政府による個人や市場への介入は最低限とすべきと提唱

抜き出すなら上記などが重要な点となるかと思います。

・民営化
・市場原理
・自己責任(自助・共助・自助そして自助)
構造改革
規制緩和

関連でよく使われるキーワードとしては上記などが挙げられると思います。

「民営化」によって「市場原理」に任せることで効率化を達成できる一方で、「自己責任」的な考えに基づいて競争することで「格差社会」や「貧困」を生み出しやすいとされています。

1節はあくまで一般論の再確認が目的だったのでここまでとします。(ここまでは一般論をまとめたに過ぎないので、ここまでは異論が出ないと思います。)

 

2. なぜ「リベラル」は支持を得られないのか
1節では「新自由主義」について確認をしましたが、2節ではなぜ「リベラル」の「新自由主義」批判は(潜在的支持者が多いのにも関わらず)支持を得られないのかについて考えたいと思います。

理由としては、「新自由主義」や「格差社会」そのものをいけないとしてしまうところにあるのではないかと思います。「新自由主義」や「格差社会」の良し悪しを論じがちですが、問題は「良し悪し」ではなく「機能する範囲か機能しない範囲か」や「許容できる範囲か許容できないか」を本来論じるべきです。

抽象的な話が続いたので、少し具体的にしてみます。たとえば「格差」一つ取っても、「家の広さが違うこと」と、「食事すらできない可能性があること」はどちらも「格差問題」かもしれませんが、程度問題としては大きく異なってくると思います。憲法生存権があるように、この辺は関連で法律などが整備されていると思います。

「リベラル」が支持を得られづらいのは、本来「程度問題」であるべきものを、過度に「平等の問題」にすり替えてしまうというところにあると思います。もちろん、世の中が平和であるうちは良いのですが、基本的には二大政党制が求められる昨今です、「結果平等」を政策の基本においては多数の支持など得られるわけはありません。

それでは「リベラル」はどうすべきなのでしょうか。3節では現在の「保守」側の主張におけるリスクについて指摘し、論じてみようと思います。

 

3. 「新自由主義」が機能しなくなるリスクはどこにあるのか
3節では「新自由主義」のリスクについて論じてみようと思います。「モラルハザードによる不自由化」が「新自由主義」のリスクだと思います。
自由主義」が「不自由」を生み出すというのはどういうことでしょうか。これについてはレントシーキングという言葉が面白いです。

Wikipediaの記載によるとレントシーキングは「民間企業などが政府や官僚組織へ働きかけを行い、法制度や政治政策の変更を行うことで、自らに都合よく規制を設定したり、または都合よく規制の緩和をさせるなどして、超過利潤(レント)を得るための活動を指す」とされています(https://ja.wikipedia.org/wiki/レントシーキング)。

ということは、「新自由主義」は「政治の経済への不介入」だけでなく、「経済の政治への介入」すらも生み出す可能性があるということです。「賄賂」、「利権」、「利益誘導」などの問題はここに起因します。「ルールを無くして自由に競争しよう」というのが「新自由主義」だったはずが、「ルールを作って儲けよう」にだんだんと変わってきます。「政治家への賄賂」で話題になるのは数十万〜数千万くらいの場合が多いのですが、この程度の金額で国益や国民の利益を売り渡されるという事態にもなりかねません。

レントシーキングやそれに伴う民営化については別途論じようと思います。本題に戻って、「新自由主義」が機能しなくなるリスクとしては「モラルハザード」が起きる可能性です。これを防ぐにはどうしたら良いのでしょう。続く4節で防ぐにあたっての「機会平等」を実現する社会について論じてみます。

 

4. 「機会平等」を論じる意義
3節では「新自由主義」がモラルハザードを引き起こす可能性について論じてきましたが、4節ではそれを受けて「機会平等」について考えていければと思います。Wikipediaでは機会平等(機会均等; Equal opportunity)は「全ての人々が同様に扱われるべきであるという観念で、特に人為的な障壁・先入観・嗜好などを「明らかに合理的と見なされているもの」以外全て取り除くべきである」とされています(https://ja.wikipedia.org/wiki/機会均等)。

機会平等についての解説で下記も重要であると思われたので抜粋しておきます。

・重要な仕事は『最も優秀な者』にゆだねられるべきだという考えに基づく考え方
・選定プロセスから恣意性を排除し、事前に合意を経た公平性に基づく、個々の専門性に関連した評価過程を元にした手続き・法的理念を重要視する

この「機会平等」という考え方は「リベラル」が論じがちな「結果平等」とは異なり、社会主義的な経済に現れがちな停滞にはなりづらいことから比較的支持されやすいかと思います。

 

5. まとめ
今回は「リベラル」の「新自由主義」や「格差社会」批判が支持を得られない理由について考察してきましたが、「結果平等」は多数の支持は得られづらいのではという点を指摘しました。おそらく「結果平等」を求めている人は世の中それほど多くはいないのではないかと思います。

一方で、行き過ぎた「新自由主義」は結局はレントシーキングを引き起こし、だんだんと「不自由」な世の中を構成していくリスクがあります。とはいえある程度現状が「自由な社会を実現する過程」に見えている可能性があります。が、昨今の入試改革の話などを見る限り、「機会平等」というよりは「階級固定」的な方向に向いているように見えます。保守は元々「前例を大事にする」考え方なのである程度「階級固定」的な話は仕方がないのかもしれません。(というよりは「新自由主義」的な考え方は本来の意味での保守にはなじまないのだと思います。)

結論としては「リベラル」は「競争社会の否定」ではなく、「機会平等に基づく競争社会を肯定する一方でそこから外れた際の支援を重視すべき」ではないかということです。「保守」と「リベラル」については関連する文脈が多すぎるので改めて別途論じられればと思いますが、少なくとも「結果平等」を重視するだけが「リベラル」ではないのでは、というのを再考する必要はあると思います。