教養(Liberal Arts)の意義とエリートの役割について|Liberal Artsを考える #1

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現代社会では「スキルアップの必要性」があちこちで主張されるのをよく目にします。が、そのうちの多くは「インスタント食品やサプリメントを食べて、健康になりましょう」のような内容を表面上だけ変えての内容であることもあり、それらについての反論なども目にします。
関連の質問をいただくこともあるので時折回答しているのですが、この際に重視しているのは当ブログのタイトルでもある、「Liberal Arts」です。結局のところ、「〇〇を知ったら良い」というスキルはすぐにコモディティ化するなど、本質的にあまり意味のあるものではありません。一方で、「Liberal Arts」的な視点を持っていると、学習が有機的に結びついてくるので、知らないことを学習する際にも大きなアドバンテージを持つことが可能になります。
また、近年エリート(いわゆるインテリや上級国民)から「Liberal Arts」的な視点が抜けているようにも見えるので、「Liberal Arts」について論じた後に改めてエリートの役割についても考えてみたいと思います。
以下、目次になります。
1. 「Liberal Arts(教養)」とは何か
2. 「Liberal Arts」を学ぶ意義
3. エリートに求められる「Liberal Arts」的な視点
4. 「豊かさの追求」としての「Liberal Arts」
5. まとめ

 

1. 「Liberal Arts(教養)」とは何か
1節では「Liberal Arts(教養)」とは何かについて簡単に確認したいと思います。Wikipediaの記載だと、「個人の人格や学習に結びついた知識や行いのこと。これに関連した学問や芸術、および精神修養などの教育、文化的諸活動を含める場合もある」が概要とされています(https://ja.wikipedia.org/wiki/教養)。また、リベラルアーツ(LiberalArts)も同様の文脈で論じられることが多いので確認します。リベラルアーツは「ギリシャ・ローマ時代に理念的な源流を持ち、ヨーロッパの大学制度において中世以降、19世紀後半や20世紀まで、人が持つ必要がある技芸(実践的な知識・学問)の基本と見なされた自由七科のこと」のように記載されています(https://ja.wikipedia.org/wiki/リベラル・アーツ)。

詳しくはそれぞれのリンク先を参照いただければと思いますが、ざっくりいうと「一般常識や世の中の事象を学術的な(論理的にある程度の正統性がある)視点を取り入れつつ洗練したもの」くらいの認識で良いのではと思います。

・数学(理系の高校〜大学2年生レベル)、統計
・語学(英語+第二外国語の簡単なレベル)
・政治経済(憲法政治学、ミクロ経済、マクロ経済、会計)
・理科(物理、化学、生物、地学の中学〜高校レベル)
・工学(各分野の概論、グラフ理論ゲーム理論、プログラミング基礎)
・歴史(中学〜高校レベル)
・論理学(必要条件・十分条件、集合、三段論法、詭弁など)

現代社会に照らし合わせて具体的に挙げるとするなら上記でしょうか。当記事では概ね上記を基盤としたその他汎用性の高い学術的知見をイメージするものとします。得意不得意もあると思いますが、どれもある程度のレベルでは抑えておくのが良いのではと思います。


2. 「Liberal Arts」を学ぶ意義
1節では「Liberal Arts」とは何かについて確認しましたが、2節ではそれを受けて「Liberal Arts」を学ぶ意義について考えたいと思います。「スキルアップ」としてよりも「Liberal Arts」として学ぶ方が有意義な点はどの辺にあたるのでしょうか。

① 汎用性の度合いが違う
-> スキルアップとして学ぶ際は「知識」として身につけることが多いですが、「Liberal Arts」として学ぶ際は「理解」として身につけることが多いです。「知識」と「理解」を比較した際に、「理解」の方が広い範囲に適用できるため、汎用性が圧倒的に高いです。「数学の演習」などがわかりやすい例ですが、「教科書の内容を知っている」のと「教科書の内容を理解している」だと大幅にテストの点数が違ったかと思います。

② シンプルに考えることができるようになる
-> 「知識」よりも「理解」として身につけると、一度に考えなければならない内容を減らすことができます。数学の「微分」一つ取っても、定義式から派生して「理解」しておけばほとんどの内容は関連で把握することが可能になります。

③ 大局的な視野を持てる
-> 社会で生じる問題は様々な要素が関連した非常に複雑な問題であることが多く、一つの視点からだけ考えても意味がないということが多くあります。こんな時に単なる「知識」では異なる分野から派生する「知識」間の整合性を調整することができません。このような時に「Liberal Arts」的な視点で様々な分野について「理解」しておくことで、異なる分野の知見を優先順位をつけながら結びつけることが可能になります。

筆者の考えを上記にざっくりとまとめました。思いついた内容でまとめたので、MECEにはなっていないと思いますが、イメージとしては十分だと思います。有機的に様々な分野の知見を組み合わせて複雑な問題に取り組みやすく、新しい知識の獲得が速いくらいのイメージでご理解いただけたら良いのではと思います。


3. エリートに求められる「Liberal Arts」的な視点
3節ではエリートに求められる視点としての「Liberal Arts」について考えてみたいと思います。題材として面白いのは「コロナショック」のような不測かつ複雑な事態への対応です。たとえば50年前の日本の政治家や官僚であればもう少しうまく対処できていたのではないかと筆者は考えているのですが、いかがでしょうか。アジア圏では何らかの理由である程度被害が少なくなっており、その中でも日本の被害は比較的大きくかつ経済的なダメージも大きいという結果になったというのがある程度一般的な評価ではないでしょうか。
対案を出さないとフェアではないので、理由について考えてみます。

① 検査と隔離を徹底しないことでリスクを放置した(現状把握を重視しなかった)
② メリハリのない自粛要請(個々人の自粛に頼り過ぎるとオオカミ少年のような状況が生じる)
③ 自助中心(平時対応とは切り分けるべき)

これにより、ある程度社会全体がダメージを受けたのではないかと思います。

以前の記事でも論じましたが、「財政破綻」については「名目上の国債残高」よりも「主権国家の構成員のコンセンサス」が重要だと思います。無論、「自己責任」という目線も大事ですが、たとえば国民の10%が生活の基盤をなくすと考えると経済へのダメージはいかほどでしょうか。また、外国人労働者(技能実習生)の一部が失職に際し犯罪を犯しているという話も、ある程度全体の流れを元に考えたらそうなるだろうと予測できるはずです。

ということで、現在のエリート(官僚のようなインテリや政治家のような上級国民を指すものとします)は少し調べて考えればわかることを全く考慮していないように見えます。何のためのエリートなのでしょうか。清廉潔白であり過ぎる必要はないですが、「エリートとは地位ではなく役割である」ということはせめて理解して欲しいものです。

もう少し突っ込むなら大局的な視野を持てていないということもあるのではと思います。関連として昨今の教育において、「専門性」がやたら注目されているというのも少し危惧しなければならないのかもしれません。何か一つで結果が出せればそれで良いのでしょうか、コスパとしては良いのかもしれませんがロボットみたいに「部分最適化」しかできない人間の育成を重視して、適切な社会の運用ができるのでしょうか。


4. 「豊かさの追求」としての「Liberal Arts」
3節は少々批判的な内容になりましたので、4節では改めて「豊かさの追求」として「Liberal Arts」について論じてみようと思います。「スキルアップが必要」のような文脈での学習はあまり望ましいものではないと思いますが、「〇〇さえやればいいんでしょ」的な考えが裏にあるからなのではないかと思います。
一方で「Liberal Arts」はどうでしょうか。確かに、すぐに役に立つ内容ではないかもしれませんが、学生時に身につけた内容であっても本質を抑えた内容は今だに役に立つということは多くはないでしょうか。ちょっとした算数が日常生活でも役に立つのとは同様に、一度学んだ内容が様々な状況で関係してくるなど、「Liberal Arts」は非常に奥の深いものです。

また、「豊かさの追求」についてはいかがでしょうか。「民主主義(Democracy)」という発想が現代社会における「豊かさ」を実現するための考え方ではないか、というのが筆者の考えです。

というのも、上記でもまとめましたが「結果平等」的な社会よりも、「機会平等」的な社会の方が健全ではないか、と考えるためです。身分や資産、能力に関わらず、「一人一票」を行使できるこの仕組みは、「機会平等」を実現するための重要な制度ではないかと思います。

とはいえ、「民主主義(Democracy)」の運用にあたって、一人一人が意思決定をするというのは大変難しい話です。広告などによるプロパガンダにもある程度左右されるかもしれません。ですが、やはり一人一人が考えて意思決定を行なっていく仕組みというのは重要で、そのための判断基準として「Liberal Arts」は大きな指針になるのではないかと思います。

上記では「選択の自由がない」ことをある程度「奴隷」的にみなしました。「選択の自由」こそが「豊かさ」であり、「自由を行使するための学問」こそが「Liberal Arts」だと思います。


5. まとめ
当記事では「Liberal Arts」の意義やエリートに求められる視点、そして「豊かさの実現手段」としての「Liberal Arts」について考えてきました。「民主主義(Democracy)」的な集団の意思決定にとどまらず、個々人の意思決定など、様々な状況において「Liberal Arts」的な考え方とは参考になるのではないかと思います。
#1では概論的にまとめましたが、#2以降ではもう少し具体的な内容について論じていけたらと思います。