前書き&プロローグ|『テクノロジストの条件(by P.F.Drucker)』読解メモ #1

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ここ最近技術や理論系の投稿が多かったので、時には違った方向の記事もということで、P.F.Druckerのテクノロジストの条件について読み進めていければと思います。
少し読み始めた印象だと、以前に読んだ「マネジメント」や「イノベーションと企業家精神」と少々違うのが挙げた二つがどちらかというと方法論についてまとめた実用書という印象で、今回のテクノロジストの条件は論述が中心の雰囲気があります(まだ最初の方しか読んでいないのでもしかしたら途中から違った論述になるかもしれませんが、軽くレビューを見たところ大体の印象は合ってそうです)。
ですので、何かに役立てるというよりは考えるきっかけにするというスタンスで一旦読み進めてみようかと思います。基本的に1章ずつ読解メモをまとめていければと思いますが、#1では前書きとプロローグについてそれぞれ要約と読んでみての感想や考察についてまとめておければと思います。
以下目次になります。
1. 前書き
2. プロローグ
3. 感想、考察、まとめ


1. 前書き(本の内容の要約)
近代技術は15世紀の半ばに活版印刷とともに生まれた。我々はいくつかの技術革命を経験してきたが、活版印刷の発明は書物の大量生産をもたらし労働力を変えた。近代以前の技術革命として、印刷革命の1400年前のローマ帝国時代に推理、道路、軍事などの技術革命が起こっているが、技術が社会と経済の中心に据えられ、企業などの社会期間が技術を中心として生まれたのは十五世紀の印刷革命のおかげだった。
技術革命そのものは近代特有のものではないが、近代に特徴的だったのがその技術革命を意図して体系的に行うようになったことにある。近代の技術革命において生まれた蒸気機関や繊維機械工場、蒸気船、鉄道、郵便、光学機器、電信などの新産業・新技術が産業と事業を陳腐化していったが、誕生も多く既存の企業に自己革新を迫った。この過程で新技術をマネジメントする必要が生じたが、問題は技術ではなくマネジメントにあった。
化学者、物理学者、設計技師などのテクノロジストはマネジメントするのを好まず、それぞれの世界で技術や科学の仕事をする方を好む結果として、企業や政府機関あるいは研究所においてさえ、テクノロジストでない人たちがテクノロジストをマネジメントすることが多くなっている。マネジメントの人たちの多くは理系の学位を持っているが、キャリア的にはかなり若いうちからテクノロジストではなくなっており、マネジメントやマーケティング、財務の世界に移っている。
本書は技術とそのマネジメントについての論文(by Drucker)からなる。本書はテクノロジストでない人たちに技術のダイナミクス、可能性、方法論を教えるものとなった。同時にテクノロジストが自らのアイデアと知識を夢に終わらせることなく行動に結びつける上で必要なマネジメントについての理解をもたらすものとなった。

 

2. プロローグ(本の内容の要約)
・冒頭部
我々はいつの間にかモダン(近代合理主義)と呼ばれる時代から、名もなき新しい時代へと移行した。一方でつい先日までモダンと呼ばれ最新のものとされてきた世界観、問題意識、拠り所がいずれも意味をなさなくなった。
我々の行動自体すでにモダンではなくポストモダン(脱近代合理主義)の現実によって評価されるに至っている。にもかかわらず、我々はこの新しい現実についての理論、コンセプト、スローガン、知識を持ち合わせていない。

・現実はモダンを超えた
十七世紀の半ば以降350年に渡って、西洋はモダンと呼ばれる時代を生きていた。十九世紀にはその西洋のモダンが全世界の哲学、政治、社会、化学、経済の規範となり秩序となった。だが今日、モダンはもはや現実ではない。
ポストモダンの最初の世代である我々にとって、最大の問題は世界観そのものの転換である。今日我々が口にしているものは350年来の世界観であるが、我々が目にしているものはそうではない。それに加えて我々が目にしているのものには名前さえなく手段もなければ道具もない。

・全体は部分の総計か
モダンの政界感とは、17世紀前半のフランスの哲学者デカルトのものである。デカルトこそが問題、ビジョン、前提、コンセプトを二重の意味で規定したのだった。
第一に世界の本質と秩序の公理として「全体は部分によって規定され、全体は部分を知ることによってのみ知りうる」という意味で定めた。第二に知識の体系化についての公理として、コンセプト間の関係については定量化化を持って普遍的基準とした。
これらの主張は今日では当たり前に思われるかもしれないが、350年来常識とされてきたためであり、初めて主張された時は際立って革新的な発想だった。

・因果から形態へ
今日ではあらゆるものが因果から形態へと移行した。あらゆる体系が、部分の早計ではない全体、部分の総計に等しくない全体、部分では識別、認識、測定、予測、移動、理解の不可能な全体というコンセプトを自らの中核に位置付けている。今日のあらゆる体系において中核となっているコンセプトは形態である。
生物学における免疫、代謝、生態などや、心理学における自我、人格、行動などはすべて全体に関するコンセプトであり、全体としてのみ把握することが可能な形態に関わるコンセプトである。これらは個々の音を聞いただけではメロディがわからないように、部分を見ただけでは絶対に把握できない形態である。逆に部分とは全体の理解の上に全体との関連においてのみ存在し、認識しうる、ものである。

・目的論的世界論
形態に関わるコンセプトに因果律を含むものはない。デカルト的世界観の主軸だった因果律は消えた。とはいえ、よく言われるように偶然性や恣意性が取って代わったわけではない。今日ではあらゆる体系が目的率を核とする。ポストモダンにおける諸体系のコンセプトは、全体を構成する要素(かつての部分)は全体の目的にしたがって配置されるとする。ポストモダンにおける秩序とは全体の目的に沿った配置のことである。ここでの目的とは中世やルネッサンス期のそれとは異なり、形態そのものに内在し、形而上のものではなく形而下のものである。
ポストモダンの世界観は、プロセスの存在を必須の要件とし、あらゆるコンセプトが成長、発展、リズム、生成を内包する、デカルトの世界観ではすべてが等式の両辺に合って移項可能だったのに対し、ポストモダンの世界観では全てが不可逆である。プロセスにおいては成長、変化、発展が正常であって、それらのないことが不完全、腐敗を意味する。

・新たな哲学
我々はこのようにデカルトの世界観を棄てたが、まだ新しい体系、方法論、公理を手にしたわけではない。その結果今日ではあらゆる体系が知的のみならず美的な危機に直面している。
実際に仕事をしている人たちは形態とプロセスのコンセプトを理解する。それどころか形態とプロセス以外は眼中にない。しかし反面、厳密な作業をする道具としてはデカルト的世界観に立つ古びた方法論しか持たない。
また、最も急速に発展しつつある体系、すなわち最も学ぶべきものの多い体系ほど教えることが難しくなりつつある。この危機は学者たちがいうような知識の発達に伴う当然の結果ではなく、当然の結果とすべきは単純化でなければならない。すなわち、理解と学習と教育の容易さが向上することでなければならない。それこそ知識の発達が目指すものである。
複雑化しつつあるということは、何か極めて本質的なもの、すなわち我々が生き、我々が見ている世界についての包括的な哲学体系が欠けたままであることを意味する。

・我々が必要とする体系
実は我々は今日緊急に必要とされている体系化がどのようなものであるか知っており、個と社会の調和のためのイノベーションに関する諸々の仕事である。

・進歩からイノベーション
イノベーションとは、未知なるものへの跳躍であり、目指すところは新たなものの見方による新たな力であり、その道具は科学的であり、プロセスは創造的である。しかしその方法は既知のものの体系化ではなく未知のものの体系化である。

・かつて変化は破局を意味した
かつて変化は人間の力では如何ともしがたいものとしており、たとえ固い決意があったとしても人間の力では目的も方向も変えようのないものだった。

イノベーションのコンセプト
今日、我々は変化それ自体を良いとも悪いとも見ず、単に常態とする。秩序を変えるものとは見ず、秩序そのものとみる。秩序とはダイナミックに動く変化そのものであると認識する。
我々にとってイノベーションは当然のことであるが、そうであったとしても我々はイノベーションの意味を本当に理解しているだろうか。

・未知なるものの体系化
未知なるものの体系化の典型例として、メンデレーエフによる元素の周期律の発見がある。
メンデレーエフは既知の元素に秩序をもたらすにはいかなる未知のものを想定しなければならないかを考えた。
すなわち得るべき知識の仕様について考察が行われた。

・ひらめきと体系化
重要なものは道具ではなくコンセプトである。宇宙、構想、知識には秩序が存在するであるとする世界観である。しかもその秩序は形態であって、分析の前に近くすることが可能なはずであるとする信条である。
イノベーションとは追加であって、入れ替えではない。何も新しいことではなく、ひらめきによって行なっていたことを体系的に行うようにしたことだけである。そして天才しか行えなかったことを普通の人間が行えるようにしたことである。
また、イノベーションには二つの領域があり、自然と社会である。いずれのイノベーションも我々に新しい能力を与える。技術の可能性を無限とし、社会の改革以上のものを可能とする。


3. 感想、考察、まとめ
なかなか論旨の流れを読み解くのが難しい文章でした。
ざっくりまとめるとモダンとポストモダンの違いとしては、因果律から一つ一つの対象の形而下に存在する目的律に変わり、対象の形態、プロセス、コンセプトを理解することが重要になってきたということだと思います。
未知のものをどうやって体系化してコンセプト化していくにあたって、モダンにおけるデカルトのような指針としてイノベーションが挙げられており、秩序が動く様をコンセプトとして把握しようというのがプロローグの論旨だと思われました。
細かい技術面についての厳密性については判断しづらいところではありますが、全体論旨の補足のためあまり気にしなくても良さそうです。全体の論旨としてポストモダンにおけるイノベーションにおけるコンセプトの体系化というのが本のこの後に繋がってくるのではという印象なので、その辺を意識しながら読み進められたらという印象でした。