現代社会における奴隷の作り方

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昨今の「コロナ関連の無利子無担保融資」について、あまり政策としては意味がないのではないかと思っていたのですが、何かに似ているなと思ったら「奨学金」に近いのではと思い至り、少し納得しました。この両者に共通するのは、「見通しがはっきりしない状況でありがたいと思いつつお金を借りる」です。
もちろん、「借金」というのは必ずしもネガティブな側面だけで考えるべきではないかもしれません。たとえば良い大学に進学し、高収入を得られるようになれば、「奨学金」は意味のあるものにはなるでしょう。が、全員が返済できる見込みはあるのでしょうか、返せない場合はどうなるのでしょうか。

今回のタイトルは「現代社会における奴隷の作り方」としましたが、結局はこれは「奴隷」を作り出す話に構造的には近いのではないかと考えたためです。「奴隷」という言葉自体はあまり良くないかもしれませんが、「奴隷的な状況」を生み出す構造については議論しておくと良いと思われたため、タイトルは少し過激になりました。

さて、批判的な論調は昨今あまりよろしくないとされるので、むしろ肯定的に考え、「奴隷をどのように作り出すか」という視点で考えたいと思います。「奴隷的な状況」が陥る人が多ければ多いほど、社会は良くなる、だから、より多くの人間をそのような状況に置くにはどうしたら良いのか、という視点でこの記事では論じていきます。

以下、目次になります。
1. そもそも奴隷とは何か
2. 不確定な状況における「借金」が意思決定範囲を狭める可能性
3. 逆に「借金」をいかにポジティブに見せるか
4. 過剰供給による「需要と供給」の均衡の崩壊
5. 奴隷が多い社会の素晴らしさを考える


1. そもそも奴隷とは何か
まず、1節では「そもそも奴隷とは何か」について言葉の意味を改めて抑えようと思います。「奴隷」は比喩的に使われることも多いため、意外と意味を抑えている方は少ないのではないでしょうか。
Wikipediaの記載によると、「奴隷」は「人間でありながら所有の客体即ち所有物とされ、人間としての名誉、権利・自由を認められず、他人の所有物として取り扱われる。所有者の全的支配に服し、労働を強制され、譲渡・売買の対象とされた」とされています(https://ja.wikipedia.org/wiki/奴隷)。
ここでポイントを下記にまとめたいと思います。

① 他者の所有物とされ、人間としての権利を認められない
② 所有者の全的支配に服し、労働を強制される
③ 譲渡・売買の対象とされる

ポイントをざっくりとまとめると主に上記の3点として良いかと思います。①権利(人権)がなく、②労働を強制され、③売買の対象とされる、です。

もう少し考えてみましょう。①の人権については日本国憲法などの「基本的人権」などを参考にして考えて良いかと思います。たとえば、自由権とされる、「自由に物事を考え、自由に行動できる権利」なども基本的人権に含まれています。

②も③も「自由に選ぶ権利がない」というのが入っているので、「奴隷」をざっくりまとめて「選択の自由がない」と解釈してもそれほど異論はないかと思います。ということで、当記事において、「奴隷とは選択の自由がない人」と解釈するものとし、以下論じていきます。
(少し論理展開に飛躍がありますが、あまり前提を詳しくすると話が進まないのでこのようにざっくりと総括しました。)

 

2. 不確定な状況における「借金」が意思決定範囲を狭める可能性
1節では「奴隷」とは「自由に選ぶ権利がない状況に置かれた人間」という解釈をしましたが、2節ではこの解釈を踏まえて不確定な状況における「借金」が意思決定範囲を狭める可能性について考えてみたいと思います。

少し具体的に考えてみます。たとえば、次の週までに必ず返さないといけない借金がある場合、皆様はどのように考えますでしょうか。「必ず返さなくては」というのも色々とありますが、「返さないことにより大きな不利益」を被る状況です。自宅まで取り立てが来る、などが例としてはわかりやすいでしょうか。身の危険を感じる状況であれば、「なんとしてでもお金を作らなくてはいけない」と考えると思います。

さて、この際に取り得る行動としては「お金を手に入れる」ということですが、株式などの資産を持っていれば売却も可能ですが、ない際は労働が必要になります。ここで労働が問題になってくるのは、稼ぐことができれば良いとして、どう考えても稼げる金額ではない際は非常に厳しい状況に置かれるということです。

これは一個人にとって物凄く厳しくて難しい問題です。何かしらの選択が強いられることでしょう。無理矢理働いて返したり、親戚から借りたり、自己破産したりと人によって様々です。ですが、これらは少なくとも「借金」がなければ行わなくて良い内容になります。

このように「借金」は意思決定範囲を狭めたり何かしらの行動を強いられたりと、ある程度選択の自由を奪います。1節で「奴隷」について確認しましたが、「選択の自由」がある程度狭められていたらマイルドな意味で「奴隷」とみなして良いと思います。ということで、「借金」によって立ち行かなくなると、「奴隷ライク」な状況(準奴隷とも呼ぶことにします)に置かれるようになるとしても良いと思います。

とはいえ、企業などは多かれ少なかれ「借り入れ」を行なっていたり「リスク」を取ることを良しとする風潮があったりもします。では「借りる側」が「借金」すべき時と「借金」すべきではない時はどのように判断するのが良いでしょうか。

一つの判断基準として、「プラスになってリターンが返ってくる見込みがあるか」というのが良いのではと思います。事業投資に回して回収できるならポジティブだし、ただ漫然と借りて使ってしまうのであればネガティブです。逆に言うと、「明確なリターンが不確定」の際の「借金」はあまり良いものではありません。「借金」で「ギャンブル」したり「浪費」したりするのは駄目だという認識は皆それなりに持っていますが、これも「明確なリターンが不確定」だからです。

ですが、皆が堅実な場合、「明確なリターンが不確定」なものに誰も手を出してくれなくなります。こうなると、「準奴隷(奴隷ライクな人)」を作り出すには不都合です。これをどのように解決したら良いのでしょうか。一つの解決策として、「借金」をポジティブに見せる手法があり、これについては3節で取り扱います。

 

3. 逆に「借金」をいかにポジティブに見せるか
2節によって、「借金」によって相手を追い込むことにより、「準奴隷」を作り出せる可能性について論じてきました。ですが、皆堅実になってしまってはなかなか「奴隷」の多い素晴らしい世界を実現することが難しいです。そこで3節では「逆に借金をポジティブに見せてしまえば良いではないか」ということで「ポジティブな見せ方」について考えていきます。

物事をたとえ良いものでなくても「ポジティブに」見せるにはどうしたら良いのでしょうか。一つの方法が、「名前を変える」です。たとえば、住民サービスを削りたい際にそのまま言っては反対される状況でも、「既得権益の打破のために」と言うだけで賛同者が増えます。同様に、「学業のための借金」と言われたら避ける条件でも、「奨学金」と言われると良いもののように見えます。「コロナに関連する無利子無担保の融資」も、支援としてのポジティブな印象が強いです。しかし、本当に「奨学金」や「コロナ融資」は無条件にポジティブに見て良いものなのでしょうか。

2節では「借りる側」が「借金」すべきかすべきでないかを判断する基準として、「明確なリターンが見込めるかどうか」について記載しましたが、こちらを踏襲します。「奨学金」や「コロナ融資」は本当に「明確なリターン」が見込めるでしょうか。この辺の判断は「自由」に決めても良い反面、結果については「自己責任」だったりします。ですが、借りる際になんとなく「皆借りているようだし...」と流される人は多いのではないでしょうか。

このように、一見評価が難しいことでも「ポジティブに」見せることで、人は警戒を緩める可能性があります。結果として、全員が奨学金を返せているでしょうか、コロナ融資は全企業が返せるでしょうか。もちろんしっかりとしたリターンを得る人もいると思いますが、おそらくは一定比率で無理な人も出てくるかと思います。

ということで、このように名称をポジティブに見せるだけでも、実は意外とリスクのあるタイミングで、「借金」をする人は一定数生じます。これによって奴隷作りの第一段階は突破できるわけです。

 

4. 過剰供給による「需要と供給」の均衡の崩壊
3節では「ポジティブに借金させる」方法について考えてきたわけですが、奴隷がたくさん欲しい我々上級国民にとっては、一人でも多くの金銭的なやり繰りを破綻させなければなりません。どうすれば良いでしょうか。

一番簡単なのはデフレを作ることです。過剰供給社会においては「需要と供給」の均衡が大きくなり、あらゆる「供給サイド」が弱い立場になります。こうなってくると、「労働」という「供給」自体の本質的な価値も下がります。こうなると、「たまたま良い職に就けなかった」だけで、「奨学金」の返済は難しくなります。また、生活にかかる最低限のコストを可能な限り上げるという手法もあります。消費税を上げるように政治に圧力をかける、家賃を高騰させる(家賃保証会社なども含む)、などやり方は様々です。他にもレジ袋の導入や社会保障の負担額を上げ手取りを減らすなど、様々な手法があります。

さて、このように「借金」を多く抱え、「収入」も上がらない状況が続けば、一定の確率でやり繰りが破綻する人が出てきます。「自己責任」の論調も強いですが、それは「戦術」的な視点であり、「戦略」的な視点ではありません。要は、破綻しやすい状況に多くの人間を一定期間置くだけで、誰かしら破綻してくれます。

一度生計が破綻してしまえば基本的に立て直しが難しいですが、ここで上級国民として気をつけなければいけないのが「窮鼠猫を嚙む」という状況にはしないということです。必ず逃げ道を用意して、「準奴隷」に「自分で決めている」という実感は与えねばなりません。本当に追い詰められると「基本的人権を盾に取った自己破産的な逃げ方」や、「弱者同士の連帯」につながる可能性があります。いわゆる「革命」というのは「弱者同士の連帯」が基盤になりやすいかと思います。本来10選べる手段を望ましくない3つほどに絞るくらいでとどめるというのが長く「準奴隷」を維持するための秘訣です。

ちなみに改憲によって、「基本的人権」をなくしてしまえればもっと良いですが、国民投票過半数を取るのはなかなか大変です。「少数による多数の支配」があくまで理想なので、過半数に取って都合の良い内容であっては困るのです。「公共の福祉」を「公の秩序」に変えるなどで、うまく権力に都合の良い方向に持って行ったり、「法解釈の変更」や「緊急事態条項」である程度押し切るのも一つの手ですが、世論をうまくコントロールする必要も生じてきます。

 

5. 奴隷が多い社会の素晴らしさを考える
ここまでは「奴隷の作り方」について考察してきました。最後に、「奴隷社会の素晴らしさ」について上級国民の視点で論じたいと思います。

某漫画に「金は命より重い」という名言がありますが、まさに「金は命より重い」のです。何故ならば「金は命より重いからです」という「循環論法」はさておき、「金が命より重い状況」を作り出すことができれば「奴隷」を作り出すことができます。

このような社会になった際に、上級国民にとって楽園的な世界を実現することができます。どこに行っても人を安く使える、金を払って言う事を聞かせれば良いのです。また、一等地に居を構え、別荘などを保持し、高級食材を独占し、贅沢の限りを尽くせます。なんて素晴らしい世界でしょうか。

ここで記したノウハウが「奴隷イノベーション2.0」の実現に向けてのバイブルとなれば大変幸いですと述べた上で、当記事の締めといたします。

 

※ 当記事はあくまでも考察であり、筆者の信条を反映させたものではありません。そのため、このように考えられるのではという範囲を超えるものでないことは強調します。